明智光秀公は、弘治2年(1556)美濃から越前に逃れて、当初は丸岡の称念寺に妻子を仮寓させ、自らは旅に出て文武両道を極め、特に堺では火縄銃を習得しました。このことから越前守護職朝倉家に鉄砲指南役として抱えられ、一乗谷から京への大手筋に当たる東大味に居を構え、妻子と共に6年余り住んでいました。
その後、明智家再興と将軍義昭の擁立のため織田信長の臣下となりましたが、信長の朝倉攻めや一向一揆掃討戦での家々の焼き払い・皆殺し等の大戦禍を耳にしました。そこで、自分がかつて住み、家族が親しく過ごした東大味住民の安否を気遣って、この地を戦禍から逃れさせるため、柴田勝家・勝定公に依頼して2通の安堵状を出させました(「西蓮寺と2通の安堵状」参照)。
当時の光秀公がお住まいになっていた屋敷跡地に住居のある3軒の農家は、安堵状の恩義を忘れず約400年間もの長い年月、極秘に光秀公の御木像を守り続け、明治19年(1886)ようやく屋敷跡地に小さな祠を建て、明智神社®として世に出しました。
東大味地区では、光秀公の顕彰と神社の一段の健全な管理を図るため平成3年(1991)にこの管理を町に移し、翌年1月に明智神社奉賛会を結成しました。
東大味では光秀公を「あけっつぁま®」と呼び、明智神社にお祀りしています。
烏帽子姿で黒塗りされた高さ13cm程の木彫りの光秀公坐像を、現在も大切に守り続けています。
護摩供養とは、主に天台宗や真言宗などが修行の一環として行う、密教系の仏教宗派が護摩行(護摩供ごまく)です。
「護摩」というのは、サンスクリット語の「ホーマ」を音写したもので、「物を焼く」という意味です。燃え上がる炎は「天の口」であって仏の智慧の象徴でもあり、その口から供物を食します。
つまり納めた護摩木は、供物として焼かれ、そして、煙が天に届くことで、天は食を頂くことができ、代わりに人に福を与えるとされています。
西蓮寺(天台宗)お堂の中に護摩壇を用意し、そこに護摩木を投げ入れて、焚き続けることで福を呼びます。
福井市明智神社奉賛会
〒919-0312
福井県福井市東大味町
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