東大味には、元来(室町以前から)、寺に類する古庵があったようですが「西蓮寺」という名称については、次のように伝えられています。
室町中期の「応仁・文明の乱」により、滋賀県坂本の天台真盛宗「西教寺」は大被害を被りました。その「西教寺」を再興された功績により、時の朝廷後土御門天皇から「上人」の号を賜った『真盛上人』(圓戒國師)は、越前との縁深く、数回にわたって訪れています。
長享2年(1488)には、越前守護職朝倉貞影の招請に応じて一乗谷を訪れましたが、その時、当東大味の古庵にも一時足を留められ、熱心に説法に努められました。その際、上人は夢の中で、「この地の西方より、蓮飛来して生ずるを覚めて見給うに、蓮一時に繁茂し、花葉清潔にして、麗色薫香四辺に満ちたり。よってここを『西蓮寺』と称す」と御染筆されたことが、その由来であると伝えられています。
やがて、真盛上人が帰山となられるとき、当地の信者・老女たちの別れを惜しむ真摯な姿を目の当たりにして「南無阿弥陀仏」の六字を染書されました。
しかし、なおも信者達の必死に嘆き悲しむ姿を見て、真盛上人は自らの姿を一木に刻み込まれ、「矛も共に心を同じせむ」と、これを形見に残して行かれたといいます。
この『真盛上人御尊像』(座高二尺三寸)は、本堂内陣御厨子内に丁重に安置されています。なお、六字名号も現存しており、寺宝として大切に所蔵されています。
現在、西蓮寺には、柴田勝家公と柴田勝定公から出された2通の安堵状(制札)が残されているとともに、御内陣には勝家公の御木像が安置されています。
勝定公の安堵状は、明智光秀公が家族共々当東大味に6年余り居住され、その間の住民との親交から、一向一揆征伐に際する府中(武生市)での凄惨極まりない信長軍の殺戮を思い西蓮寺と住民の安否を気遣って戦禍から守るため、勝家公に依頼し、北ノ庄への先遣隊長として進駐された柴田勝定公から天正3年(1575)9月11日に出されたものと解されています。
一方、勝家公は、天正3年(1575)に主君織田信長より越前49万石を与えられ北ノ庄城主に任じられました。
勝家公はまず一向一揆の再発防止と治安維持に重点を注ぎ厳しい規則や禁令を公布されましたが、一揆に参加しなかった天台宗や高田派の寺院には理解と保護を持って処せられたため、当西蓮寺に対しても、寺領を保護し、これを乱す者への厳しい取締り制札や安堵状を出されました。
また、これら両宗派の寺院に対しては北ノ庄へ移転するよう指令が出され、他の数寺院は早々に移転しましたが、当西蓮寺は期限が迫っても移転せず、しかも何の催促やお叱りもないまま寺院も住民もここに安住できました。
この寺のものは早く帰って住居せよ
もし非難する者あらば知らせよ
蹴散らしてくれる
柴源左
九月十一日
勝定(花押)
西例寺
※西蓮寺の誤り
特に、柴田勝定公(柴田源左衛門勝定)の安堵状は全国的にもその類がなく、福井市の貴重な文化財として所蔵しています。
寺の山林は伐採してはならない
寺のつとめは前記のとおり
勝手ごと要求する者がいるなら
急きょ知らせよ
すぐ成敗してやる
来春には寺を北ノ庄へ移築せよ
年内は許す
天正三年十一月二十日
勝家(花押)
大味村 西蓮寺
安堵状のことに対して、当時の先祖は深い感謝の念を忘れず、子孫に代々伝えてきました。
そしてどのような経緯かは定かではありませんが、文政8年(1825)勝家公8代目子孫・大阪の柴田徳翁氏により、今日安置されている「柴田勝家公御木像」が寄進されました。
柴田勝家公の御木像で歴史的由緒あるものとして現存する木像は、当寺の御木像が全国唯一のものといわれ、西蓮寺では毎年3月上旬頃ご供養を続けています。
西蓮寺には、文禄3年(1594)6月4日、蜂須賀平左衛門正吉から西蓮寺に対して出された安堵状(福井市文化財)が残されています。
蜂須賀平左衛門正吉は、秀吉の重臣で阿波徳島の城主となった蜂須賀家と同属であり、当時は北ノ庄3代目城主堀秀政の家臣で年貢取締役であったと思われます。
寺屋敷をまえまえのごとく寄進する上は、
少しのまちがいや、
みだれがあってはならない
文禄三年六月四日
※安堵状(制札)とは、
福井市明智神社奉賛会
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